My Leica Story
ー 写真家 大石芳野 ー
ドキュメンタリー・フォトグラファーの大石芳野さんが、長年にわたりライカで撮影してきた作品を展示する写真展が、ライカギャラリー東京とライカギャラリー京都(両会場共、会期は2021年5月30日まで)で同時開催中。会場のライカギャラリー東京にて、展示作品とライカ、そして大石さんとの関わりについてインタビューさせていただきました。
text:ガンダーラ井上
ドキュメンタリーの真髄を、2つの会場で展示
――ライカギャラリー東京では、戦争で大きな被害を受けた沖縄の地で逞しく生きる人びとに焦点を当てた作品14点、ライカギャラリー京都では、戦争や内乱など厳しい環境下で心に痛みを抱えながらも、強く生き抜く人びとの「笑み」を40年間にわたり撮り続けた作品の中から厳選した15点が展示されています。2カ所同時での開催で、準備などご苦労されたのでは?
「京都の展示はそれほどではなかったけれど、沖縄がテーマの東京の展示は悩みました。銀座のライカにいらっしゃるお客様ってどういう方なのかなぁって。ここでの展覧会は今までアート系が多かったので、どのように見てもらうか写真のセレクトを考えました。沖縄のことを知らない人にも知ってもらいたいし、知っている人にも『ああ、そうだね』って頷いてもらえたらいいなと思って構成しています」
少年は空(から)になった荷台を牛に引かせて家路へ向かう。
©Yoshino Oishi
――この水牛の写真は、いつ頃に撮影されたものですか?
「今回の展示の中では一番古くて、1972年の写真です。沖縄には日本に復帰した年から通っているんです。それより前から沖縄にはどうしても行ってみたいと思っていたけれど、当時はパスポートだけでなく現地に身元引受け人が必要で簡単には入れない時代でした。実際に行けたのは復帰の直後であちこちに行きました。その時は沖縄の政治的なテーマを撮りたいということではなく、沖縄の文化的な部分にとても興味があったんです
――確かに、人々の生活の中に息づく琉球民族の独自文化は沖縄の大きな魅力ですね。
「沖縄の人たちと仲良くなって、あるとき一緒に泡盛を飲んでいたら、『薩摩がね‥』という言葉がでてきて。とても驚きました。江戸時代に薩摩藩が攻めてこなかったら、沖縄の人々は自分たちの大切なものを持っていられた。それから明治政府にやられて琉球は沖縄になるのですが、最初のきっかけは薩摩だという話があって、別の機会に話をしてみても、やっぱり薩摩と太平洋戦争の沖縄戦が心の根っこにあるんです。私は単なる写真家ですけれど、人々の心の根っこの中にあるものを撮りたいと思っています。私は戦争で心も体も傷ついた人たちがこんなに大勢いるということを核にして、最初から撮りたかった文化的な暮らしとドッキングさせたいと思って、それから沖縄に何年も通っています」
瑞慶覧カメさんは「投降を呼びかけた男性を、茂みにいた日本兵が
『こんな奴がいるから日本は敗けるんだ』と怒鳴って日本刀で切り殺すのを見た」と語った。
©Yoshino Oishi
――この作品は真正面からのカットではありませんが、大石さんが真剣に傾聴されていらっしゃる姿勢が写真から感じられて、キャプションを読んでみると語られた内容は壮絶な沖縄戦の体験だとわかり、その事実をこちらも真剣に受け止めなければという気持ちになりました。撮影されたレンズは50ミリでしょうか?
傾聴する姿勢と、35ミリの視線
「これは35ミリだったと記憶してます。私は、あまり遠くから撮るのが好きじゃないんです。50ミリが標準で人の目に近いからいいと若い頃から聞いているけれど、50ミリを使うと少し下がらないといけない。写真的には50ミリが一番美しく撮れるのかもしれないけれど、35ミリで撮る時の被写体と私の距離が一番いいんですよね。28ミリならもっと近づけるけれど歪むでしょ。だから、だいたい35ミリを使っています」
――被写体の方が語る言葉に耳を傾け、その心の内を感じ取れる距離感を大切にされている。だから大石さんにとっての標準レンズは35ミリなのですね。撮影に使われているカメラは、どのようなものなのでしょうか?
「1972年以前から、ずっとライカです」
――おお! 35ミリレンズを装着したライカを持って世界のどこにでも出向き、ライカを自分の体の一部のように使いこなすドキュメンタリーフォトグラファーというのは、私たちアマチュアの憧れの的です。
2011年、津波の跡で。35ミリ準広角レンズを装着したM型ライカ2台で撮るのが、大石さんのスタイル
初めて手にした、シルバーのライカM4
――大石さんの初めてのライカとの出会いとは、どのようなものでしたか?
「まだ20代の駆け出しの頃です。ある写真関係の仕事をしている人が、おそらく外国で買ってきて、あまり使ってない新品のようなライカM4を持っておられたんですね。それを私に見せてくれたんです。シルバーでとにかく格好よくてね、それを眺めている私がよほど欲しそうな顔をしていたんでしょうね。『買った値段で売ってもいいよ』と言ってくれたんです。一緒に手に入れたレンズは35ミリでした。とても気に入ったのですが、すぐに2台目を買うことはできなかったのでニコンFやF2と一緒に使っていた時期もありました」
――レンジファインダーのM型ライカと一眼レフのニコンFとは、グラフジャーナリズムやドキュメンタリー写真家の愛機にふさわしい組み合わせですね!
「F2チタンまではニコンも使っていました。でも、今回展示している写真は全てライカで撮影したものです。最終的にはカラー用とモノクロ用でライカM4を2台使うようになりました。一度海外に出ると走り回るからすごく雑に扱って、鞄の中でカメラがごちゃごちゃになって自分でも不安になるんですよ。だからもう1台は予備のために絶対必要なんです。そこでライカM5も買ったんですけど、大きくて私の手にはフィットしなくて。そのうちにライカM6が出て、露出計が入っていてライカM4と同じ大きさなのでこんなに嬉しいことはないと思って、最終的にはM6が3台になりました。予備が1台で、2台は常時肩からかけてカラーとモノクロのフィルムを入れていました」
信頼できる道具として使い続けるライカ
愛機のライカM4(上)にはズマロン、ライカM6(下)にはズミルックスを装着。いずれも35ミリのレンズだ。
――ご愛用のライカ、酷使された跡のあるレンズフードの凹み具合が、様々な撮影現場の臨場感を伝えてくれるようでゾクゾクします。
「ライカさんに整備を頼んだら『こんなに沢山シャッターを切っているカメラは見たことがない』と言われたこともありました(笑)。だから壊れるまでシャッターを切る。でも壊れないからシャッターを切り続けているんです」
――M型ライカを使い始めたとき、一般的なカメラのファインダーとは違うので戸惑うことはありませんでしたか?
本格的なレンジファインダーのカメラを使ったのはライカが最初です。慣れるのにちょっと時間がかかるんですよね。でも慣れるとすごく調子が良くて、私にとっては使いやすくて撮っていて苦にならなかったです。ピントを二重像で合わせるのがダメと言う人も周囲にいましたけれど、私には他の人が嫌だと思っている部分が良さに感じられたんです。多分、ライカと相性が良かったんですね。だから、カメラを持つとフィルム巻き上げレバーにすこし親指がかかって、こういう風に持たないと撮るって気持ちにならないんです。それでライカばかりで撮るようになって、そうすると望遠は撮影に絶対必要なので、ヴィゾフレックス用の望遠レンズも買って使っていましたよ。
戦地でも未開の地でもライカを携えて進む
1980年、タイ・カンボジア国境戦闘地域にて。右肩にはテリート望遠レンズ付きのライカM4
――M型ライカを一眼レフとして使う、ミラーハウジングとプリズムファインダーを組み合わせたヴィゾフレックスに専用の望遠レンズを装着して撮影されていたのですね!戦地で肩からさげている姿が凛々しいです。
「そうなんですよ、すごいでしょ(笑)。カンボジアではずっと持って歩いていましたし、パプアニューギニアにも持って行きました。あのレンズは手動絞りでしょ。その頃は目が良くて体力もあるし機敏だし、開放からF5.6とかF8とかにパッと絞ってピント合わせをして撮る。それができたんですよ。撮りながら『ああ、これは歳をとったら使えないレンズだな』って思ったんですけどね、でもその頃は大丈夫でした」
――ところで、撮影に向かった先で命が危なかったことなどもあるのでしょうか?
「ラオスではベトナム戦争当時にばらまかれた爆弾の不発弾が、歩いていたら靴の先2センチのところにあったこともあります。私は何も知らずにそれを跨いでいたかもしれないし、踏んだり蹴飛ばしていてもおかしくない。戦争が終わっても、普段の生活がそんな状況にある。それを撮りに行っていたわけですから危険は伴う訳ですね」
使用を検討中のライカQ2モノクローム、ライカM10モノクロームの感触を確かめる大石さん
――大石さんは、戦禍や内乱など困難な状況にありながらも逞しく生きる人々の姿を撮り続けていらっしゃいます。世界中で理不尽な光景や過酷な運命を目の当たりにすることで、ご自身の心が疲弊してしまうのではないかと心配です。どのようにしてメンタル面のバランスを取られているのでしょうか?
「別に、バランスを取ろうと考えたことはないですね。でも、もうこの種の仕事は辞めたいって思うことはいくらでもありますよ。辛くなってね。もうこれで終わり、と。写真って何を撮るのも大変だとは思うけれど、花だって蝶だって撮れるものがいっぱいあるでしょ。だからもう行くのはやめようって思うんだけれど、しばらくするとすごく気になるんですよ。あの子はどうしているかな?とかね」
大石さんを“その次”に向かわせるもの
――実際に、ベトナムにもカンボジアにも何度となく足を運んでいらっしゃいますね。京都のギャラリーで展示しているコソボの少年にも、何度も会いに行っていることを知って心が動かされました。
コソボ ヴァルドゥリンくん(9歳)は目の前で父親をセルビア武装勢力に無惨に撃ち殺された。
©Yoshino Oishi
「この写真のヴァルドゥリン君には何回か会いに行っています。あるとき彼は涙を見せて、いろんなことを話してくれた。それは彼が心の中から必死に、戦争は嫌だよって私に言ってくれたのと等しいわけです。私はそれを受け止めたからシャッターを切った。会いに行けていない子への思いもずっと同じで、あの子はどうしているかなって思うことが、私を次に向かわせるんです。何のために私がやっているかというと、言葉にするとキザですけれど、いろんな人たちが私に問いかけてくれたことに責任を持ちたいのです。だから、聞いたことはしっかりと伝えたいと思ってます」
――自分の意思とは関係なく、取り返しのつかない事態に巻き込まれたり弱い立場に追い込まれてしまっている人の心の声を聞き、それを写真で伝えることで責任を果たすという大石さんの姿勢に感服します。そして、人の笑顔を捉えた写真も素敵です。このタイの女の子の写真、最高の瞬間ですね。構図も素晴らしいです。
タイ 少女は機織りの手を休めて「織っていると嫌なことも忘れて、気が休まるの」と笑みを絶やすことなく話した。
©Yoshino Oishi
「ライカの場合は、本当にシャッ!と、もうカメラを構えたらすぐにシャッターが切れるんですよ。構えたらシュッ!っとピントを合わせてシャッターを押すまで、相当速いんです。逆にデジタル一眼レフだと何だかいろんなボタンがあって、恥ずかしながら押し間違えて元に戻すのに時間がかかったり。そんなモタモタや失敗もありました」
ーー便利そうでお節介なボタンだらけのカメラが大多数を占めるなか、M型ライカはフィルム機もデジタルになっても操作がとてもシンプルですよね。見た目の威圧感もないので、相手がリラックスした状態で撮れるのも利点だと思います。
「この写真で好きなのは、犬が寝ているところ。普通は知らない人が来たら犬って吠えるものだけど、この写真では寝たままでしょ。私の存在が、このワンちゃんにとって珍しくないというか、仲間というか。私に対して安心しているんですよ」
ーー本当にそうですね! 人であろうと犬であろうと、どんな相手も決して脅かすことなく、想像力と共感を持って接している大石さんの人柄が全ての作品を形作っていることが実感できました。本日は、貴重なお時間をいただき、素晴らしいお話をたっぷり聞かせていただきありがとうございました。
「こちらこそ、どうもありがとうございました」
大石芳野写真展
さとうきび畑からの風
期間:2021年2月10日(水) - 5月30日(日)
会場:ライカギャラリー東京 (ライカ銀座店2F)
東京都中央区銀座6-4-1 Tel. 03-6215-7070
それでも笑みを
期間:2021年2月13日(土) - 5月30日(日)
会場:ライカギャラリー京都 (ライカ京都店2F)
京都市東山区祇園町南側570-120 Tel. 075-532-0320
大石芳野(おおいしよしの)プロフィール
写真家。日本大学芸術学部写真学科卒業後、戦禍など困難な状況にあっても逞しく生きる人々、土着の文化や風土を大切に生きる人々が主なテーマ。著作:「沖縄に活きる」「沖縄 若夏の記憶」「それでも笑みを」「HIROSHIMA半世紀の肖像」「カンボジア苦界転生」「ベトナム凜と」「夜と霧は今」「子ども戦世のなかで」「隠岐の国」「福島FUKUSHIMA 土と生きる」「戦争は終わっても終わらない」「戦禍の記憶」「長崎の痕」他受賞:土門拳賞、紫綬褒章、JCJ 賞、他