My Leica Story
ー 杉野信也 前編 ー



カナダの広告映像作家として名高く、CMディレクターや撮影監督などの分野でも活動する写真作家、杉野信也さん。ライカギャラリー東京およびライカプロフェッショナルストア東京、ライカギャラリー京都の3会場にて写真展『Pilgrimage Ⅱ Leica as Plenary Indulgence(巡礼Ⅱ 免罪符としてのライカ)』が開催中(ライカギャラリー東京およびライカプロフェッショナルストア東京は8月13日、ライカギャラリー京都は8月18日まで)。展示された作品は、すべてライカで撮影されたものとのこと。そこで杉野さんの作品作りへのこだわりや、ライカとの関わりについてインタビューさせていただきました。

text:ガンダーラ井上



コロナ禍を経て、満を持して日本での個展を開催

――本日は、お忙しいところありがとうございます。東京での展示を拝見して、杉野さんの作品世界に圧倒されました。数年ぶりにカナダから日本へいらしたとのことですが、本展を開催するまでに様々なご苦労があったとうかがっています。これまでの経緯をお話いただけますか?

「もともとは、東京オリンピック・パラリンピックの年に開催する予定でこのプロジェクトを進めていました。コロナ禍でカナダから日本に来ることができずに延期し、今回ようやく実現することができました」

――杉野さんは写真作家としての活動と並行して、カナダの広告映像制作の第一線で活躍され、世界最高峰の国際広告賞であるカンヌライオンズで金賞を3回受賞された経歴もお持ちです。カナダに在住されて何年くらい経つのでしょうか?

「かれこれ50年以上、活動の拠点は完全にカナダです。本展の準備にまつわるやりとりは全部リモートで行いました。最初はプラチナプリントで作品を展示しようとしていたのですが、コロナの影響で熟考し、作業する時間的な余裕ができたこともあり、結局は自分自身でフォトグラビュールという手法を用いて制作することにしました」

作家自らが手作業で刷ったプリントを展示

――展示されているのは、いわゆる銀塩(ゼラチンシルバープリント)とは異なる、とてもユニークな印画です。杉野さんのサイトに掲載されている作品をモニター画像で拝見したものと、実際に展示されている作品を肉眼で見た印象では、その質感が違うことに驚きました。

ご自身の手によるプリントについて語る杉野信也さん


「全く違う見え方になっていると思います。このプリントの感じはモニターでは表現しきれないので、あえてサイトではデジタルバージョンにしています。ネット上でも面白いことはできると思いますが、僕は写真を長い間やってきていますから、プリントされた作品に対する想いが強いのです。感材の供給の問題などもあり、銀塩写真を制作することが困難になってきている状況のなか、発表手段を何にするのかという課題があります」

――そこで出された答えが、フォトグラビュールという手法なのですね。ギャラリーでプリントを拝見していて、見る角度を変えると写真のハイライトの部分が渋い銀色に光っていることに気付いてびっくりしました! 一体どのようなプロセスでこの印画が生み出されているのか興味があります。

版画と同じ原理で、写真の刷版を作る

杉野さん自らが作ったフォトグラビュールの原版


「これはお見せする刷版のサンプルとして用意したものなのですが、これがフォトグラビュールの原版です」

――何とも不思議な素材です。これは何でできているのでしょうか?

「裏側はスチール板になっていて、その上にUV感光性の樹脂が塗ってあります」

――紫外線を当てることで硬くなる樹脂ですね。同じ原理を用いたUV硬化型の接着剤が写真用レンズの貼り合わせにも使われています。

「撮影した素材を全部デジタル化してフォトショップで加工したうえで、この版に直接インクジェットでプリントしてしまうのです。プリントすることで、黒い部分は遮光されることになります」

――あ! その表面に照射すれば遮光されていない部分だけが紫外線に晒され、そこだけ樹脂が硬化する。それで残りの部分を洗い流してしまえば、思い通りに窪みを形成することができますね!

「そうなんです。UVで露光して凹版を作るのです。凸版の逆ですね」

――なるほど! 要するに銅板のエッチング版画では強い酸を用いて腐食で溝や窪みを作る工程を、紫外線に反応する樹脂に置き換えていると考えていいのでしょうか? もしかして、出来上がった刷版を、原理的には中世から変わらないスタイルの十字ハンドルをグルグルと回していく版画制作用の器具でプリントされているのですか?

古典的なプレス機で、紙とインクを圧着して刷る

「はい、版画と全く同じ理屈と技法です。刷版を作る部分にはデジタルの画像処理とポリマー樹脂という現代の技術を合体させていますが、プリントは古典的技法で刷っています。この原版にローラーでインクを詰めて、それから余分なインクを全部落としてからプレス機で紙と圧着させることで刷ります」

観賞用として特別製作された原版(ライカギャラリー東京)


「プリントに使うのであれば鏡文字にする必要がありますが、これは鑑賞するために刷版としては裏焼きの状態で制作したものです」

――かなり複雑なプロセスですが、どうしてフォトグラビュールという手法を選ばれたのでしょうか?

古くて新しい、フォトグラビュールの技法

「20世紀の初頭に発刊されたアルフレッド・スティーグリッツの『カメラワーク』という歴史的な写真季刊誌も、実は同じ手法のフォトグラビュールで刷られています。その当時も様々な印刷技法がありましたが、一番階調を豊かに再現できたのがフォトグラビュールだったのです。それが最近になってにわかにリバイバルしてきています。先ほど申し上げたとおり、銀の価格が高騰してフィルムや印画紙が手に入らないなどの要因で銀塩写真を制作することが困難になってきていることも影響しています」

――銀塩以外のオルタナティブが様々ある中のひとつとしてフォトグラビュールという手法があり、そのプロセスを現代的に改良されたということですね。

「刷っている紙は雁皮紙(がんぴし)と呼ばれるものです」

――これは、とても薄くて繊細なものですね! 紙自体がスケスケで透明に見えます。

「刷っただけなら、紙ですから当然白いですよね。そこにニスをかけることで透明になります。これを乾燥させてから銀箔で裏打ちすることで、雁皮紙の透明な部分、すなわち写真のハイライトの部分に銀が透けて見えるようになります。これをドライマウントティッシュというシートを挟んで熱で圧着して台紙に貼り付けています。圧着する前の段階のものを手に取ってみていただけると、よくわかると思います」

雁皮紙の薄紙に、銀箔を裏打ちする

ニスがけした雁皮紙の裏には銀箔が見える


――すごい! この銀箔の裏打ちがあるからインクの乗っていない部分は古典技法のダゲレオタイプのように見る角度によって銀色に光って見えるのですね。しかも支持体は紙という温かみのある素材であるところがユニークです。こうして銀箔を裏に貼るという、名付けるならシルバーフォトグラビュール技法は杉野さんのオリジナルということでしょうか?

「その部分に関してはそうですね。光るというだけでなく、裏に貼った銀箔が少しだけクシャクシャとなって、陶芸の世界でいう『景色』のような、思いもかけない雰囲気が出てくることも意図しています」

――銀箔のシワ感と雁皮紙のテクスチャーが相まって、とても味わい深いです。展示を拝見していてハイライト部分の金属的なニュアンスに気づき、あれ?あれあれ?これは紙だけどなぜ?とプリントを見る角度を変えながら、しゃがんだりのけぞったりしながら鑑賞させていただきました。

「やはり、何か発見がある画というのは面白いですよね」

あえて保護ガラスなしでプリントを展示

――この体験はモニターに映し出された画像では得られないもので、展示を肉眼で鑑賞する意義があると思います。なおかつ、額装の保護ガラスで覆うことなく大胆にもプリントを生のまま見せていただけて本当にありがたいと思いました。

「やはり、ガラスの有無で見え方が全然違いますからね。もし展示品がダメージを受けても、また刷ればいいと思っています」

――いや、それは本当に大変なことになってしまうじゃないですか。

「大変ですが、ぜひ皆さんに最良の状態で見ていただきたいという想いで展示しています」

台紙に貼る前の繊細な印画も展示(ライカギャラリー東京)


――ハイライトが金属の光沢を放つといえば、ダケレオタイプだけでなく、フィルムが発明される前に普及していたティンタイプなどの金属が支持体のプロセスがあります。それらの写真を博物館などで見たときの記憶が蘇ってきました。

「金属板にインクジェットで出力するという方法も、実はテストしました。でも、何かのっぺりとした印象になってしまうのです。現在のインクジェットプリントは階調表現の能力は極めて高いのですが手作り感がなく、ある意味で完璧すぎて温もりが感じられませんでした。一言で言えば、インクジェットで出力すると僕の感じている『ライカらしさ』が足りないのです」

――それは、人の手によって生み出される根源的な感覚ということでしょうか?

「そうです。そこでなぜライカを使うかというテーマに入っていくわけです。僕はプロとして色々と面白い仕事をやってきていますが、実際に仕事をしているときにはデジタルの機能が満載された機種を駆使しています。PHASE ONEの1億5000万画素を超えるカメラも使っています。でも、広告写真をやっている人間は、大抵どこかにライカを持っているものです」

広告写真家が、ライカを持つ理由

――仕事の現場で使わないとしても、事務所や自宅のどこかにライカがあるのですね。

「広告写真家は、なぜパーソナルな写真を撮るのか? 僕たちの同業者がライカを持っていることの根底には、罪悪感があるのです。仕事としては身過ぎ世過ぎのために魂を売り飛ばしていて、実は自分はこれがしたいのだと表現活動をするときに、なぜライカを使うのか? それは、ライカのもつ潔さだと思います。ライカにもオートフォーカスのモデルがありますが、僕の中ではライカとはレンジファインダーのモデルです」

――フィルム時代から受け継がれるライカの伝統であるMシステムということですね。

「ライカのムービー用レンズは動画撮影で使ってみたいですが、一眼レフに関しては友達が持っているものを触ったものの、あまり好きになれませんでした。ではなぜレンジファインダーという不便な形式のカメラを使うのか? それは、広告写真家としての一つのスタンスであり、罪を許してもらうための免罪符なのです」

免罪符としてのライカ


――今回の展示タイトルの日本語は『巡礼Ⅱ 免罪符としてのライカ』です。

「免罪符は英語ではIndulgence(インダルジェンス)、普通はもう少し長くPlenary Indulgenceと言います。Indulgenceの英語のもう一つの意味は、贅沢をするとか浪費をする。あるいは気の赴くままに良いものを使うことも示すのです。僕の中では、そのダブルミーニングになっています。PHASE ONEもあるしキヤノンのシステムも交換レンズを含め一切が揃っているにもかかわらず、それらではなくライカを使うのはなぜか? それは、やはり表現者としての原点に戻るということだと思います。僕の師としている人は、ほとんど皆ライカを持っています。それをあまり口外しないのは、ライカで写真を撮ることが、罪滅ぼしのようなものだからでしょう」

――あるいは、魂の浄化と言っても良いかもしれませんね。

「そういうことです。広告の世界はコピーライティングでも上手いことを言って大衆を騙している部分があります。広告写真もそうです。嘘はついていないけれど、いかにいいところを誇張するかを常に競っています」

――優良誤認ギリギリの境界線を、さまざまなアイデアと技法を用いて猛スピードで駆け抜けるような。

「そうそう。そういう世界からの免罪符として、ライカがあるのです」

杉野さんの、初めてのライカ

――ちなみに、初めてライカを手にされたのは、広告の仕事を始められてからですか?

「いえ、学生のときです。初めて手にしたのはライカM2でした」

――ライカは、なかなか学生には手の出しづらいカメラですよね。ライカM2ということは新品ではなく、カナダの中古カメラ店で求められたのでしょうか?

「そうです。あの頃はまだライカも中古であれば安く手に入れることができました」


――ライカM2はビンテージのアナログ機として大人気で探すのも難しく、中古の価格も上昇を続けています。現在の状況とは異なるとはいえ、初めてのライカを買うには勇気が必要だったのではないかと思います。

「決して裕福ではありませんでしたが、当時僕は学校の授業に遅刻しそうになったらタクシーで行くようなことをしていました。そんな金銭感覚でライカも手に入れたんです。その後、勤めていたスタジオをクビになったときも、銀行に行ってお金を全部おろしてライカM3を買った覚えがあります」

――有り金を全部ですか! それは恐れ入りました。失職を機にライカを買うというのは、杉野さんにとってある種の贖罪、すなわち魂の救出であったのではとお察しします。作品のことをお聞きするのが後回しになってしまって恐縮ですが、もう少しライカの遍歴を教えていただいてもいいでしょうか。

「もちろん大丈夫です。ライカの話を続けましょう」

My Leica Story ー杉野信也 ー 後編
つづく  


Photo by Y



写真展 概要

作家 :杉野信也
タイトル:「Pilgrimage II Leica as Plenary Indulgence(巡礼Ⅱ 免罪符としてのライカ)」

ライカギャラリー東京 (ライカ銀座店2F)/ライカプロフェッショナルストア東京
東京都中央区銀座6-4-1 2F Tel. 03-6215-7070
期間:2022年5月13日(金) - 8月13日(土)*月曜定休

ライカギャラリー京都(ライカ京都店2F)
住所:京都市東山区祇園町南側570-120 Tel. 075-532-0320
期間:2022年5月14日(土) - 8月18日(木)*月曜定休

写真展詳細はこちら



杉野信也 Shin Sugino

大阪生まれ。19歳でカナダに移住。オンタリオ州トロント市のライアソン大学で写真、映画を専攻。その後、同市ヨーク大学美術学部の講師を務める傍ら、写真作家としてのキャリアをスタートさせる。1980-1986 年には活動の場を広げ、カナダ、米国、スペイン、オーストリアの各国にて長編劇場映画のスチール写真カメラマンとして活躍。1986 年に広告写真スタジオ “Sugino Studio” を創設。1995 年カナダで初の完全デジタルプロダクションシステムを確立、カナダの広告映像作家の第一人者としての地位を築く。以後、写真だけでなく、テレビCMのディレクターや撮影監督などの分野でも活動を続ける。

これまでに、各種の国際的な賞を受賞。1988 年、2002年にカンヌ国際広告映画祭で金獅子賞、2006年には同広告映画祭サイバー部門でも金獅子賞を獲得。この他、Clio Award Gold, The One Show, The Advertising and Design Club of Canada,Applied Ar ts Magazine, Photo Distr ict News, Communication Ar tsMagazine, Lürzer’ s Archive Magazine などで数々の賞に輝く。

広告写真、コマーシャルの制作の傍ら写真作家活動を常に続けており主に古典技法の湿板写真、プラチナプリント、フォトポリマーグラビュールのプリントで作品を数々の写真展で発表。写真作家としての作品はカナダ国立美術館、Ontario ArtsCouncil Collection, Banff School of Fine Arts Collectionや、数多くのプライベートコレクションに収められている。
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