監査役会会長アンドレアス・カウフマンが、ライカ100周年に「箱根」を訪れた理由——日本にライカを広めたパウル・シュミット
Report by Makoto Suzuki
ライカ初の市販モデル「ライカI」が発売されたのは、今からちょうど100年前。そのライカIが、発売された1925年のうちに早くも日本へ輸入されていたことをご存じでしょうか。輸入したのは「シュミット商店」という、ドイツ人のパウル・シュミット(1872〜1935)が創業した商社です。
シュミット商店が雑誌「アサヒカメラ」に掲載した広告。日本初のライカの広告と言われている。
■ライカを日本に広めたパウル・シュミット
ドイツに生まれたパウル・シュミットは、1896年に東京でシュミット商店を設立。ライツ製品の輸入開始は1905年と記録されており、カメラ以前の主力製品だった顕微鏡から始まります。その後シュミットは、ライカなどの海外製カメラの輸入を通じて“ライカを日本に広めた人物”、“日本の写真技術向上に貢献した陰の功労者”とも呼ばれています。
芦ノ湖畔のパウル・シュミット。写真提供:市川泰憲氏(日本カメラ博物館運営委員、元月刊『写真工業』編集長、『写真にこだわるBooks』主幹。以下同)
そんなシュミットは1935年、中国出張中に自動車事故で亡くなりました。1936年に顕彰碑が建てられた箱根は、シュミットの別荘があった場所なのです。当時の箱根は日本において外国人の別荘購入が初めて許された場所であり、その第1号となったのがシュミットでした。
1906年に建てられたシュミットの別荘は“赤門別荘”と呼ばれた。写真提供:市川泰憲氏
何より、シュミットが箱根の人々に愛されていたことは大きいでしょう。日本語が堪能だったシュミットは芦ノ湖畔の人々と交流し、恵まれない人々には匿名で金品を贈ることもあり、とても親しまれていたそうです。
シュミットの没後、別荘敷地内に建てられた顕彰碑(写真中央)。1971年に現在の場所へ移った。写真提供:市川泰憲氏
シュミット商店といえば、シュミットの没後1936年に発行された「降り懸る火の粉は拂はねばならぬ」という冊子が有名です。これはカメラ雑誌の記事から巻き起こったライバル製品との比較論争に対して、ライカの支持者が反論するという趣旨。初期ライカの話題には必ず登場する文言で、これを収蔵する日本カメラ博物館では「カメラ広告の歴史に残る印象的なタイトル」と紹介しています。
シュミット商店が制作したライカのカタログ。右が有名な「降り懸る火の粉は拂はねばならぬ」。日本カメラ博物館蔵
そんなシュミット商店は、第二次世界大戦後にGHQによって解散させられます。1950年以降は株式会社シュミット、日本シイベルヘグナー株式会社がライカを輸入。2005年にライカカメラ社の日本法人としてライカカメラジャパン株式会社が設立され現在に至ります。
シュミットの別荘は1951年に富士屋ホテルが買い上げ、従業員寮として使用されました。1986年には「レストラン・シュミットハウス」として新たな建物でオープンします。レストランが閉店した2005年以降は、レストラン時代の建物をそのままに「箱根駅伝ミュージアム」として現在も営業しています。
レストラン・シュミットハウスに建て替えられたあとの写真。現在も「箱根駅伝ミュージアム」に面影を見られる。写真提供:市川泰憲氏
同行した市川泰憲氏。編集長を務めた「写真工業別冊 世界のライカレンズ Part 2」(2002年刊行)において、古い写真を手がかりに芦ノ湖畔を現地調査するなど17ページにわたりパウル・シュミットを特集。
■監査役会会長アンドレアス・カウフマンと顕彰碑の出会い
日本におけるパウル・シュミットの功績を監査役会会長アンドレアス・カウフマンが詳しく知ったきっかけは、2014年に日本を訪れた時でした。観光で立ち寄った芦ノ湖畔でたまたま見かけた碑に、古いドイツ文字で“Paul Schmidt”という、いかにもドイツ人らしい名前が書かれていたことが気になったそうです。
調べてみるとライカにとって大きな功績を残した人物だと判明し、箱根町の観光協会と協力して説明板を整備しました。その後はコロナ禍で再訪の機会がなかったものの、東京での100周年イベント開催が決まったことにより、ようやく整備後の現地を訪れることが叶ったのでした。
当日は箱根神社で祈祷を受け、芦ノ湖畔に移動してシュミットの顕彰碑に献花しました。カウフマンは、世界中のライカファミリーの繁栄、そして日本とドイツの関係が今後ますます発展することを、シュミットに見守ってもらえるよう祈ったと話しました。
■ライカと日本の特別な関係性
ライカ100年の歴史には、様々な場面で日本企業との関わりがありました。それは日本製カメラの台頭によりライカが苦境に立たされた1970年代に始まり、ミノルタ、富士フイルム、パナソニック、シャープの名前が挙げられます。さらに2025年6月にドイツ本社で行われた100周年イベントでは、ライカのパートナーとして、イメージセンサーを供給するソニー、デジタルカメラ技術を共同開発するパナソニック、Lマウントアライアンスの一員であるシグマの名前も紹介されていました。
日本のカメラ産業は、ライカを含むドイツ製品に範をとったことが知られています。多くのカメラメーカーが“ライカ型カメラ”と呼ばれるレンジファインダーカメラを製造し、今でも35mm判カメラの「標準レンズ」が50mmとされている理由も、他ならぬライカの標準レンズが50mmだったことがきっかけだと証言されるほどです。それが今では、ドイツと日本がお互いの知見と技術を融合させながら“ライカ”を作っています。カメラ産業において、これほど深い繋がりを持つ2国は他にないでしょう。
ライカファンにとっての聖地といえば、以前の記事でも紹介した通り、今もライカ誕生当時の街並みを残すドイツ・ウェッツラーが真っ先に思い浮かびます。これに加えて日本のライカファンには「箱根」が今後ますます大切な場所となるでしょう。シュミットを想いながらライカを片手に歩けば、きっと素晴らしい旅となるに違いありません。
パウル・シュミット顕彰碑は、箱根・芦ノ湖畔の箱根駅伝ミュージアムや箱根海賊船 箱根町港が近い。(https://maps.app.goo.gl/6ZXyfvZmLhDuzR8EA)
Photo by Makoto Suzuki





